2006年02月19日

口ずさむお経の話をしてみよう どうでもいいことなんだけれども

 今日は仏大の試験日。科目は「仏教書誌学」といって,経典に関する学問でした。って,ざっくり書くと余計にわかりにくいので,ちょっぴり詳細を書いておこう。

 そもそも今僕らが仏壇の前で読んでいる『般若心経』なり『法華経』なり『阿弥陀経』のような冊子型のものが存在するのは,質の良い紙が大量に入手でき,簡単にコピー(印刷)ができ,きちんと翻訳(サンスクリットなどのインドの言葉→中国語)されたものが現在も残っているという,暗黙の前提があるからです。「暗黙の」というのは,僕のような坊主だとか仏教学者ならしっかりと問題意識を持たないといけないけど,一般の人々はそこまで知らなくても普段読む分には問題ないという意味です。つまり,どの要素も欠けてしまえば現在仏壇の前でお経を読む事だって難しいわけですが,まさに「仏教書誌学」という科目はこの問題意識の部分を研究する分野なのです。

 例えば日本において質の良い紙が容易に入手できるようになったのは近代になってからでしょう。紙は紀元前に中国で発明されて,きちんとした製紙法は紀元後2世紀に蔡倫が発明したと言われています。この製紙法は751年のタラス河畔の戦いでヨーロッパに広まりました(高校の世界史でやりましたね)。今でこそコピー用紙500枚1,000円みたいな売られ方がされていますが,機械もない時代,紙すき職人による仕事を通してでしか紙は作られなかったわけですから,簡単に一般庶民が手に入れられるものではありませんでした。

 日本人が紙を大量に必要としたのは,世界的にも比類ない識字率を誇った徳川時代の寺子屋制度によるものであり,それまではセレブな人たちの「○○日記」とか歴史書などが特権階級の人たちにだけ印刷されれば良いだけの供給があればよかったのです。同じく徳川時代に仏教保護政策がとられたことで,一般大衆にも読経のチャンスが巡ってきましたが,経典の印刷もコストがものすごくかかっていた時代ですから,それほど普及していたわけでもないでしょう(詳細は未確認ですが)。質の悪い紙では保存もききませんし。ここまで,紙の問題も重要だったんだという話。

 そもそもお釈迦さまの時代には,紙がありませんでした。竹とか木片に文字を書く風習はあったのでしょうが,お釈迦さまが自ら筆を執って執筆作業をされたわけではありません。お釈迦さまが涅槃を迎えられてから弟子達が,如是我聞(かくのごとくをわれきけり)という形でお経を編纂していったわけです。これらの経典が中国に伝わり,インドの言葉から中国語に翻訳されていくわけです。そしてそれが朝鮮を通ったり,直接の形で日本に入ってきたわけですね。

 次に印刷術の話。今でこそボタン一つでコピーが簡単にとれますが,最初は書き写しでコピーをとりました。でもサンスクリット語を読める中国人なんていませんでしたから,シルクロードであちこち行き来していたパルティア国だとか周辺国の僧たちが中国語に翻訳したうえで,それを一生懸命コピったわけです。当然,字を写し間違えたりとか一行とばしちゃったりとか1ページまるまるとんじゃったりとかしてたんでしょう。でもなんとか書写されて複製が作られて中国に仏教ブームが到来するんですね。特に隋が出来るまでの五胡十六国時代なんて異民族が漢民族を支配するために仏教を利用したり(日本の蘇我・物部時代と同じ)したもんだから一気に仏教は広まった。それに伴って印刷術も発達して,書写も面倒くさくなって,整版によるがり版刷りの要領でどんどん複製が作られるようになります。そのうち木製の活字が作られて印刷のコストパフォーマンスも向上するわけです。で,日本は豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮の金属活字を分捕って日本に持ち帰ってきます。さらに電気の発明もあってコピー機が生み出されて今にいたるわけです。

 最後に「きちんと翻訳されたもの」について触れておこう。サンスクリット語から中国語に翻訳した人たちはたくさんいますが,時代によって言葉も変わりますから,いつの時代に誰が訳したかというのも実は大きな問題になってきます。ま,一般の皆様にはどうでもいい話ですが,坊主の僕には大事な話ってことで走り読みしてください。例えば皆さんご存知の『般若心経』は玄奘(三蔵法師)による訳文です。もちろん多くの人間が同じ『般若心経』を訳しているのですが,日本には玄奘訳しか残っていないかのような大普及です。名訳なんだから,まあいいでしょう。
 さて玄奘は唐の時代の人ですが,隋ができる前後の時代に鳩摩羅什っていう有名な翻訳家がいました。僕が毎朝本尊の前で読んでいる『阿弥陀経』はこの鳩摩羅什の訳によるものです。で,玄奘訳のものもあるんです。でも普及していない・・・。法然上人が『阿弥陀経』は鳩摩羅什訳のものにすべしと決めたから普及していないのかもしれませんが,訳の違いって気になりません?実は去年,仏大のスクーリングで,まさにこの訳の違いに注目した講義を受けましたが,けっこう鳩摩羅什と玄奘の性格が出ているというか,意訳と直訳の対比みたいな訳の違いがあるってことを学びました。余談ですがこの講義は,サンスクリット語,その日本語訳,鳩摩羅什訳,その日本語訳,玄奘訳,その日本語訳っていう6種類のお経(もとは『阿弥陀経』ですが)を対比して,3つの日本語訳の違いを探るものでしたが,なかなか面白かったです。
 話を元に戻すと,名訳なんだから玄奘訳の『阿弥陀経』でもよさそうなもんなのに,法然上人は何か理由があって(不勉強なため理由は知りません)鳩摩羅什の訳の方を選びました。ま,鳩摩羅什と玄奘の訳の内容が全く違うというわけではないし,宗祖がこっちって選んだんだから文句はありませんが。

 こうして,紙が揃い,コピーが簡単にでき,内容に疑義がないものだから,現在仏壇の前で我々がお経を読む事ができるということがわかりました。本当は「仏教書誌学」って,何年にどこそこでだれそれが印刷したのがどこどこに現存しているとか何だとか,そういうことがメインな学問なのですが,これじゃあマニアックすぎて説明も面白くないので,卑近な例で語ってみました。ま,これがわかったからと言って生活が楽になったりするわけじゃないですけどね。耳学問の一つとして役立ててください。



(雑記)
 試験対策は前日まであまり気が乗らず,ぶっつけ本番でしたが,試験場へ向かう電車の中で読んだ部分がどんぴしゃりでした。日ごろのお念仏のおかげかな(^^)
posted by 時をかける僧侶 at 18:28| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 布教活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月25日

信心の深きによるべし所得額 うわべ心にマネー来ず来ず

 暗い話ばっかり続くとしめっぽいので,せっかくのクリスマスなんだし宗教の信心について興味深い記事を紹介しておこう。
 
(Oct/26/05 REUTERより引用開始)
【教会に通う頻度高いほど高収入=米研究】
 米マサチューセッツ工科大学経済学部のジョナサン・グルーバー氏は25日,教会に通う頻度が高いほど,世帯所得も高くなるとの研究結果を発表した。
 同氏は全米経済研究所(NBER)によって発表された研究論文のなかで,「教会に通う頻度が倍増すると,9.1%の世帯収入増につながる」としている。
 さらに,「おそらく信仰心が厚い人ほど,日常的な問題でストレスを受けることが少なく,結果として,就職や結婚などの場面で成功しやすいのだろう」との見解も述べている。
 また同じ宗教を信仰する相互依存的な民族社会で暮らす人々ほど,礼拝に赴く頻度が高いとしている。
 同研究は,教会を訪れる頻度と教育水準,収入,婚姻率などが相関関係にあるとしている。
(引用終了)

 この記事をフォローする情報が見当たらないので中途半端なコメントになってしまうことにご了承いただきたいのですが,どうやら信仰心と所得には高い相関があるようです。M.I.Tの研究では「教会」となっていますが,先進国であればという条件をつけておいて,彼らが信奉する宗教と読み替えれば,おそらく先進国にあてはめれば研究結果の普遍性は保たれるのでしょう。ま,気軽に書くブログであんまり緻密なことをうじゃうじゃ書いても仕方がない。これをぽーんと日本国民に当てはめてみよう。というのは,無宗教(多宗教?)と言われている日本国民についても面白い考察ができるんじゃないかなと思ったからです。

 大胆に下図のように日本国民を分類してみよう。

1.信仰心篤い |2.信仰心篤い
  かつ    |  かつ
  低所得   |  高所得
        |
 ーーーーーーーーーーーーーーー
        |
3.信仰心薄い |4.信仰心薄い
  かつ    |  かつ
  低所得   |  高所得

 研究結果に従えば,2は相関,3は逆相関なので説明はいらない。問題は1と4に分類される人たちは身近に探せば必ず誰かはいるという現象です。これをどうとらえたらいいか。坊主である僕自身の問題として「仏教の布教のためにどのように解釈して説法をすべきか」という観点からも考えてみたいと思います。

 で,僕なりの結論から言っちゃうと,1とか4というのは自分の単なる思い込みであるか,現時点の瞬間風速の話であるかということで,本質的には2か3に分類されるんだろう。どういうことか以下に簡単に書いておきます。でも1エントリだけですませるような話じゃないので,考えの断片のようなものを今日は書いておくことにして,最終的な結論はペンディングします。いろいろ考えていくと面白いテーマですし。

 まず共通の話題として,日本人の「信仰心」をどのように定義するかということはけっこう難しい。研究ではアメリカ人が教会に通う頻度を指標にしているわけですが,日本だったらやっぱり「教会」か「お寺」「神社」ということになるのかな。それとも,家に仏壇とか神棚があれば,それに向かうだけでいいのだろうか。・・・と逡巡ばかりしていても仕方がないので,そのような宗教行為を心をこめてできる人を「信仰心が篤い人」と定義してしまおう。全くしないか,嫌々ながら形だけしている人を「信仰心が薄い人」とします。宗教は仏教だろうとキリスト教だろうと幸福の科学だろうとなんでも良いとしよう。定義をしっかり定めておいて,さあ個別に見ていきます。

 まず1について。
 この層は,”私の信仰心は本物なのだろうか”という宗教への真摯な向き合いを改めてしてみることで,本質的には3なんじゃないかということが発見されるかもしれません。いわゆるマンネリ化が怖いということ・・・かな。毎日神棚に向かっています,仏壇を拝んでいます,でも暮らしは楽になりません!というようなときは,よくよく気持ちがこもっているかどうかを点検してみるといいでしょう。そもそも仏教は(特に浄土宗は)現世利益が第一義ではありませんから,高所得を求めて宗教活動をするというのは本当の信仰心ではありませんが。他の宗教はどうか知りませんが,気持ちがこもっているかどうかを点検すれば,実は3層だったということに気付くことが多いと思います。

 続いて4について。
 これは簡単。”今だけやん,ずっと高所得とは限らんよ。”ということ。瞬間風速で今現在は高所得かもしれないけど,本質的にはやっぱり3の場合が圧倒的に多いでしょう。今仮に成功して高額の所得を手にしていたとしても,己の力を過信したり,自然の力を軽視したり,拝金主義に陥ったりという状態が続いたらひっくり返るかもしれません。無宗教を自認する日本国民の多くがバブルの波に飲み込まれて,一気に4から3に遷移してしまった事実を思い起こすと分かりやすい(僕が説法するならこの例を頻繁に使うと思いますね。ほらね,信仰心がないと調子がいいのも一時だけだよって)。
 あるいは少数でしょうけど,例えば信仰心の篤い家族達の徳のおかげで高所得になっている,実質2という場合も考えられます。記事に戻っていただくと,研究では本人の所得じゃなくて世帯所得が云々と書いていますから,世帯ひっくるめてトータルで「信仰心が篤い」という場合は2です。

 そんなわけで僕なりに自分の周りに当てはめて考察した結果,本質的な部分で言えば,MITの研究結果はそのとおりだろうと結論付けることができます。心からの信仰心が結果的に永続的な高所得を生むというのは事実であろう,と。宗教家にとっても自分の説法に一層の説得力が備わるようで嬉しい。ま,こじつけって言われりゃそれまでなんですけど。

 さっきも書きましたが,こういう研究って興味深いですね。また採り上げていきたいと思います。
posted by 時をかける僧侶 at 22:36| 兵庫 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 布教活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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